2019年 09月 01日
佐倉宗五郎大明神 秋の大祭
高蔵寺ニュータウンの東となり、外之原地区と木附地区にゆかりのある、「佐倉宗五郎大明神」秋季大祭に参列してきました。
この祠の修繕を行なったので。
ちなみに、傷んだ土台を取り替え、庇を木でつくり直し、腰板を張り替えというもの。
「そりゃ、ちゃんとしたものでないと!」ってなりますもんね。(笑
御利益もありました!
地元の方に喜んでいただけた事もですし、同級生とも再会!中学卒業以来なので何年振りか。塚原君。すぐに分かりました。お互いですかね、かわってなーい(笑
地域を大事にする仕組みがある。いいものですね。
一応、いわれも記しておきます。
義の人、佐倉宗五郎は江戸時代前期の下総国佐倉藩領の義民として知られる人物。下総国印旛郡公津村の名主で、本名は木内 惣五郎、通称は宗吾とされる。 領主堀田氏の重税に苦しむ農民のために将軍への直訴をおこない、処刑されたという義民伝説で知られる。っとあります。
明治11年(1878)から16年(1883)にかけて、川平(かわひら)山や隠れ山の所有権をめぐって外之原村(木附を含む)の農民と沓掛(くつかけ)村(瀬戸市)の士族の間で裁判が起こりました。一審で敗訴した外之原村の農民は大審院(だいしんいん・今の最高裁判所)へ上告し、千葉県の宗吾霊堂(れいどう)に参拝して裁判に勝てるように祈りました。その結果、東春日井郡長だった堀尾茂助らの助けもあって、大審院で逆転勝訴を勝ち取ることができました。村人達は、これを記念して木附に碑を建て、佐倉宗五郎大明神を祀りました。碑には宗五郎および一緒に処刑された4人の子供らの戒名(かいみょう)が刻まれています。
以前は現在地近くの山中にありましたが、ニュ-タウンの造成により木附神社と共に現在地に移されました。
毎年、旧暦の8月3日(現在は9月5日)に祭礼を行ってきましたが、平成元年(1989)に当時の裁判記録が発見されたのを機会に、三好照生宗吾霊堂第26代管長や当時の農民の子孫ら80人が出席して、盛大な法要が営まれました。また、平成6年(1994)は佐倉宗五郎大明神を祀って110年目にあたり、大祭が営まれました。